さあ、ついに今、私はこの水辺にやって来た。 この岸辺にずっと置き忘れられていた、たくさんの小枝を拾い集めるために。 なぜなら、それは日本から渡ってきた渡り鳥が運んできたものだから。 私が飛行機で飛んできた八千キロを、小さな鳥がずっとくわえて飛んできたものだから。 小さないのちの形見として、一本一本、拾い集めよう。 渡り鳥はくちばしに小枝をくわえて、長く過酷な渡りの旅に出るという。 旅の途中、その小枝を大洋の波間に浮かべて、疲れた体を休める。 目的地にたどり着いた鳥たちは、その小枝を海岸に置きその地で数ヶ月を過ごす。 そして時が来ると、自分がくわえて来た小枝を再びくわえて、次の渡りへと一斉に旅立って行く。 しかし鳥たちが去ったあとの冬の荒れた海から、毎日毎日、おびただしい数の小枝が岸に打ち寄せられて来る。 その枝と同じ数の鳥が、旅の途中でいのちを落としたのだ。 土地の人はその枝を集め、冬の海辺で火を焚く。その火で暖まりながら、死んだ鳥に思いを馳せて供養をするという。 津軽地方に伝わるこの伝承が、科学的に正しいのか? そんな詮索よりも、この美しいイマジネーションと、人々が渡り鳥に対して抱いていた愛情のこもった親近感に、 私は深く動かされる。 なぜ、ヒトは、渡り鳥に親近感を持つのか? それは、ヒトもまた、旅をしているから。 今日の朝は、昨日の朝と同じではなく、今年の春は、去年の春とは違う。 たとえ、毎日が単調な同じことの繰り返しのように見えても。 私はこの地で小枝を集めよう。 集めた小枝を舟に載せ、湖に流そう。 今にも壊れてしまいそうないかだに載せて。 旅の途中で死んでいった鳥たちのタマシイが、再び旅立てるように。 |